「恐るべき力量発揮した名演」として、批評が掲載されました。
こちらで読むことができます
⇒ http://bit.ly/c23NZv
今や世界最高のソロ・ピアニストとして誰もが認めるクリスティアン・ツィメルマン。その彼が、このたびハーゲン弦楽四重奏団とともに室内楽だけを披露しに来日する。
「ここ数年来、バッハからシマノフスキー、ガーシュイン、ショパンと、日本でも活動内容の幅を広げてきました。日本で初めてとなる室内楽も、この試みの延長線上にあります。それに私は、そもそも“室内楽出身”なんですよ。私の父はピアニストだったのですが、戦後の困難な時期、ある工場で働いていました。従業員の中には元音楽家がたくさんいて、毎日、彼らと室内楽をするんですね。ある年のクリスマスに、私も鍵盤のついたクラリネットのお化けのような楽器をもらい、見よう見まねで一緒に吹いていたら、楽譜が読めるようになった。そうして、誰かが抜けると私が代奏する。チェロ、ヴィオラ、第1ヴァイオリンのパートだって吹きましたよ(笑)。学校時代も繰り返しやったのは室内楽で、ソロ活動を始めてからもやめたことはなく、今回の演目シューマンのピアノ五重奏曲などは、ロッケンハウス音楽祭をはじめ、さまざまな機会に演奏してきました」
ショパン同様、今年生誕200年を迎えるシューマン。ツィメルマンにとって、どんな存在なのだろう?
「シューマンは、刻苦の人、探求の人であり、最後には精神をも病みました。それが作品に表れていると思います。とくに終楽章ですね。解決策を探して、探して、結局見つからないというようなところがある。しかし、危険を賭してでも新しい音楽を書こうとしたのであって、彼は紛れもなく偉大な作曲家です。それにピアノ五重奏曲は、はちきれんばかりの喜びにあふれた素晴らしい作品ですよ。お客さんに喜んでもらうことを、私自身、一番大切にしていますからね。悲みをたたえた第2楽章にさえ、人を魅きつけるオーラがあります」
共演するハーゲン弦楽四重奏団も、クァルテットというフォーマットにおける、現代最高峰の面々だ。
「1981年、彼らがロッケンハウスの室内楽コンクールを受けにやって来たとき、私は審査員の一人だったのですが、満場一致で彼らに一等賞を与えました。当時は彼らも、まだこんな子供でね(笑)。それから30年後に初めて共演するんですよ! まずイタリアで、そしてザルツブルク音楽祭で共演し、それから日本に来ます。そうして、シューマン・イヤーを祝い、昨年生誕100年を迎えたバツェヴィッチを祝うのです」
ハーゲンら4人によるヤナーチェクの弦楽四重奏曲第1番のあと、今回、ポーランドの作曲家・ヴァイオリニスト・ピアニスト、グラジナ・バツェヴィッチ(1909-69年)作曲のピアノ五重奏曲第1番(1952年)が演奏される。
「私がポーランド出身だからということではないのです。シマノフスキー[注:彼もポーランドの作曲家]を弾いたときと同じで、優れた作品だから取り上げるのです。バツェヴィッチのピアノ五重奏曲には2曲あり、第2番のほうは、あるコンクール用に書かれたこともあり、非常に難しい。今回演奏する第1番は、深い悲劇性から民謡的要素まで、多彩な性格をもった、交響曲のような音楽ですよ。第2楽章など、ほんとうに美しい」
知られざる現代曲を古典的演目に混ぜて紹介する。そんな「戦略」にもみえるが?
「魅力的な作品を、とにかく知りたいだけなんです。そうして見つけては、親しい村長さんに電話をする。『では明日、村の教会堂で弾いてくれ』と、こんなこともしばしばです。楽譜を見ながら部分だけを演奏し、集まったお客さんにお話しをする。いつか日本でもやってみたいですね。日本では私について“完璧主義者”のイメージがあるらしいのですが、こんど演奏の途中で弾くのを止めてみましょうかね(笑)。仕上がった演奏を披露するばかりが、演奏会でもないでしょう?」
これからもどんなアイディアが飛び出してくるか。先の読めない、楽しみな人だ。
取材/文・舩木篤也
1回1回のステージに命を賭けて臨みます。
死ぬ気で演奏する作品でなければ、弾くことはありません。
クリスチャン・ツィメルマンはヨーロッパの伝統を受け継ぐ正統派のピアニストとして知られている。レパートリーをじっくりと選び、長年かけて作品を完璧なる状態に仕上げ、さらにホールの音響、楽器の調整まで気を配り、最大限すばらしい演奏を生み出そうと努力する。音響や調律を学び、10年ほど前から自分の楽器を演奏会に持ち込むようになった。
「私がさまざまなこだわりを持つのは完全に納得いく演奏をしたいから。自分の理想とする演奏を聴衆に聴いてほしいからです。そのためにはあらゆることをする覚悟があります。これは音楽に対する私の尊敬と愛情の表れ。自分が納得いく演奏をしなければ作品に近づくことはできない。すべては音楽のためです」
ツィメルマンのこだわりは楽器に対してだけではない。彼は祖国の偉大なショパンが編み出した2曲のピアノ協奏曲を、なんとしてでも理想の形で表現したかった。そのためにはこの作品が内包するオーケストラのすばらしさをより強く打ち出し、ピアノ・ソロとの密度濃い音の対話を実践することが必要となる。ツィメルマンは90年代の終わりに自らオーディションを行い、ポーランド祝祭管弦楽団を設立。このオーケストラと世界ツアーを行い、コンチェルト2曲の録音も完成させた。
「ショパンのピアノ協奏曲は若い時代の作品で、オーケストレーションが完璧ではないといわれることが多いのですが、決してそんなことはありません。ピアノとオーケストラの呼吸が合い、密接なコミュニケーションが可能になれば、それこそすばらしい音楽が生まれます。みずみずしく情感豊かなこれらの作品は、聴いてくださるかたの心を幸せで満たし、ショパンの世界へといざなう力を有している。それを表現したかったのです」
ツィメルマンの音楽への深い愛情は、子ども時代の家庭環境から生まれたもの。彼はポーランドのシュレジア地方に生まれたが、当時この土地は環境汚染がひどく、窓も開けられない状態だった。両親は工場で働き、音楽好きの父親は仲間たちと一緒にいつも家でさまざまな楽器を演奏して楽しんでいた。彼らにとって、音楽は過酷な仕事、生活環境から逃れる唯一の手段であり、楽しみだった。そのアンサンブルにツィメルマンは幼いころから加わり、やがてピアノを習うことになる。7歳からは名ピアニスト、教師として知られるアンジェイ・ヤシンスキに師事し、音楽の基本を学び、10代から次々にコンクールに参加するようになった。
「でも、いつもいい成績を残していたわけではありません。私は当時トリルの演奏が苦手で、あるコンクールに参加したとき、このトリルでことごとく失敗、ビリになってしまったんですよ。そのときにヤシンスキ先生が審査員席にいらして、まわりの審査員たちから、この子はこれ以上ピアノを続けていてもねえ…といわれ、困惑していたのを覚えています。ものすごく悔しかったですよ。私が直接いわれるのならともかく、先生が周囲の人たちから弟子の欠点を指摘されているのですから」
ツィメルマンはその悔しさを払拭するため猛練習をし、次のコンクールでは見事第1位を勝ち取った。まだ、ショパン国際ピアノ・コンクールに出る前のことである。だが、この国内のコンクールで優勝を果たしたことにより、ツィメルマンのもとにはショパン・コンクールへの要請が入ることになる。このときはポーランドから参加した唯一の男性ピアニストとして、また18歳という若さで優勝の栄冠に輝いたわけだが、その後の人生は決して平坦ではなかった。世界各地から演奏の申し込みが殺到、録音も行われたが、常に彼はこれでいいのかと自問自答していた。
「自分の本当に目指したい道は何なのか、音楽への強い愛情をいかにしたら聴衆に伝えられるのか、完璧なる演奏をするためには何が必要か、ずっと悩んでいました。もちろんこの答えはいまだ出ていません。だからこそ私は自分を律し、練習へと駆り立てるのです」
真摯で前向きで果敢に人生を切り開く姿勢を崩さないツィメルマン。その演奏は世界各地で絶賛され、最近では「真の巨匠」とまで称されているが、本人はこうした賞賛の言葉には興味を示さない。ただひたすら自分が納得のいく理想の美しい音楽を求め続けている。それが証拠に、ショパンのピアノ・ソナタ第2番、第3番はこれまで何度となく録音を行ってきた。数カ月前にも収録を終えた。しかし、いまだその結果に満足できず、世には送り出せない。レコーディング・スタッフには申し訳ないと思いながらも、妥協はしない。
「このソナタは私にとって非常に大切な作品。長年弾き続けてきた愛奏曲です。でも、まだショパンの意図したところには近づけず、作曲家の魂を表現することができないのです。リサイタルで演奏するのは録音を残すこととはまったく異なる意味合いを持っているため積極的に舞台にかけますが、録音はまだリリースできないのです。今年のショパン・イヤーにはショパンを演奏する機会が以前にも増して多いですから、ソナタの演奏もより成熟度が増していくと思います。私はいつもこれらを1回1回死ぬつもりで演奏します。命を賭けて演奏する作品でなければ、私は弾くことはありません。だからこそ、すべてを完璧な状態に整えなければならないのです」
こうした言葉だけを聞くと完璧主義者ゆえの近寄りがたい性格だと思われがちだが、素顔はとてもおだやかでジョーク好き。ファンを大切にし、信頼し合う音楽仲間も多い。カラヤンとバーンスタインの両巨匠に愛され、クレーメルとは親友、後輩のブレハッチの面倒をことこまかに見る。現存する作曲家からも作品を献呈され、彼らとの交流も深い。そんなすべてがツィメルマンの音楽を形成し、完璧な美に貫かれながらも、作品の奥深く潜む喜怒哀楽の感情が豊かに表現される。その味わい深い表現を演奏から受け取りたい。
伊熊よし子(音楽ジャーナリスト)
≪クリスチャン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル≫
2010年6月3日(木) 19時開演 サントリーホール
2010年6月5日(土) 18時開演 サントリーホール
2010年6月10日(木) 19時開演 サントリーホール
曲目は下記URLからご確認ください。
<チケットの購入>
WEB:こちらから
TEL:ジャパン・アーツぴあコールセンター (03)5237-7711
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5/13スタートしたクリスチャン・ツィメルマンの日本ツアー初日。
スタッフがレポートをしてくれました。
「ショパン生誕200周年記念オール・ショパン・プログラム」
会場:武蔵野市民文化会館
満席となった会場で、ツアーは静かな暖かい響きの夜想曲で始まりました。
ソナタ2曲を中心に構成されたプログラムは、ショパン・イヤーのために準備された入魂の出来上がり。
言葉がありません…
会場に居合わせた、アーティストと聴衆の一人一人、そして200年前に生を受けたショパン。
そのショパンの生み出した音楽が時空を超えて共有し、その感動をわかちあった一期一会。
ツィメルマンは全身全霊をかけてショパンの人生、作品の美しさ、奥深さ、気高さをピアノで伝えただけでなく、彼自身の今日までの人生が聴衆に伝わるような魂のこもった演奏でした。
この感動を是非、一人でも多くの方と共有したい!
その思いを強くした一夜でした。
⇒ 前編はこちら
「ショパンの音楽は、彼という人物と切り離して語れるものではありません。最初に理解しなくてはならないのは、19世紀の頃、ある国には領土というものがなく、存在する権利すら奪われていた。そのような時代に、ショパンがポーランド舞曲のリズムにもとづいてマズルカを書くことはなにを意味していたのか。つまりそれは、ひとつの国が存続する権利をもち得るようなアイデンティにほかならなかったのです。そして、私にとってのショパンは、自分の人生をずっと伴走して、ともに歩んできてくれた音楽でもあります」。
クリスチャン・ツィメルマンが、いま敢えてショパンの作品に集中して取り組んでいるのは、たんに生誕200周年だから、といった間に合わせの理由によるのであるはずがない。「生まれた瞬間からショパンの音楽とともに歩んできた」と語る彼だからこそ、内に秘めた覚悟は深く強いものに違いない。現在のツィメルマンならでは視点で、作品を細部まで見つめ直し、意を決して臨んでいるはずだ。
さて、ツィメルマンの本格的なショパン・プロジェクトとしてすぐに思い浮かぶのは、このために自ら組織したポーランド祝祭管弦楽団を指揮したピアノ協奏曲である。今年2010年が生誕200周年のお祝いなら、このプロジェクトでレコーディングも行った1999年はショパンの没後150周年にあたっていた。オーケストレーションを見直して独自の解釈を聴かせたツィメルマンは、「ピアノとオーケストラが一体化するものを創造したかった」とその思いをふり返る。「もうひとつ、ショパンのオペラに対する愛情を表現することを試みました。ショパンがワルシャワにいた当時は、ロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニといったオペラの大作曲家が初演の後すぐにこの街で上演したのです。また、ショパンが歌劇場にいた歌手に恋をしていたということも、オペラのもつ意味を非常に大きなものにしていた。ヘ短調コンチェルトのリハーサルのとき、私はオーケストラに何度も止めましたよ。ここに19歳の人が座っているのだということを決して忘れないように、と言って」。
そして2010年、ツィメルマンはオール・ショパンでのリサイタル・ツアーを、年明けからヨーロッパ中で展開してきた。ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調と第3番ロ短調を中心としたプログラムで、この5月には日本各地を訪れる。作品を演奏することを通じて、ショパンの激しい人生や感情を生き続けていくのには、どのような秘訣があるのだろうか。
「私にとっては毎回がリスクでもあり、謎でもあるのですね。ショパンの激動の時代に生きることは、その度ごとの挑戦でもある。だからこそ、最良の緊張感を生み出すのではないかと思います。どれだけ練習をしても、コンサートではなにかが起きます。あるいは、なにも起こらない、ということが起きる(笑い)。それこそが、芸術であるか、そうでないものであるかの違いを生み出すのだと思います。これに対しては、私自身が影響を与えられるものでもないのです。すべてを準備することはできます。そのうえで、それをどうしても体験したいという聴く方の意思、そしてなにか体験したいと思われているものを与えたいという私の思いが一致しないとだめなので、それを先ほどリスクと呼んだわけです」
音楽は私たちがともに生きる時間のなかにしかない、とツィメルマンは考える。そして、それは一期一会のコミュニケーションを通じて、毎回異なるかたちで立ち顕れてくる。ツィメルマンが格別の敬愛を抱いて臨むショパンとの対話は、そうしてコンサートのさなかにこそ、かけがえのない生命を育んでいく。
「今回はオール・ショパン・プログラムを組みますが、この後、私はしばらくショパンをお休みしようと思っているのです。日本の聴衆の方々に、私の弾く2つのソナタをお聴きいただけるのは、数ある機会の最後のひとつになるかも知れない。もう一度、日本でこれを演奏することになるかどうかはまだわかりません・・・・」。
取材・文 青澤隆明
≪クリスチャン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル≫
2010年6月3日(木) 19時開演 サントリーホール
2010年6月5日(土) 18時開演 サントリーホール
2010年6月10日(木) 19時開演 サントリーホール
曲目:
【オール・ショパン・プログラム】
ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 作品35
ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 作品58
●全曲目は追って発表致します。
※この他の曲目につきましては、東京3公演は異なるプログラムになる予定です。
<チケットの購入>
WEB:こちらから
TEL:ジャパン・アーツぴあコールセンター (03)5237-7711
⇒ 詳しい公演情報はこちらから
ショパン・プログラムでリサイタルツアー中のクリスチャン・ツィメルマンがショパンの誕生日の去る3月1日にパリのサル・プレイエルにて、リサイタルを行いました。
その模様を招聘元ジャパン・アーツのスタッフがレポートしました!
プログラムは2月22日ロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホールでのプログラムと同様に、ノクターン嬰ヘ長調Op.15-2、ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調Op.35、スケルツォ第2番変ロ短調Op.31、ピアノ・ソナタ第3番ロ短調Op.58、舟歌嬰へ長調Op.60。
ショパンの夜想曲の中で最も美しい曲の一つであり、光と暖かさを内包する自然で流れるような「ノクターン」op.15-2、失える祖国に思いをはせた叙情と憧憬に満ちた「ソナタ第2番」、情熱と多彩な力強さに富んだ「スケルツォ第2番」、人生の壮大なドラマを語るような「ソナタ第3番」、そして哀愁と優美さを持ち合わせ演奏上完璧な技巧を求められる「舟歌」。
どの曲をとってもショパンがのり移ったような想像を絶する究極の作品としてそれぞれに生命が吹きこまれ、2000人近い満席のサル・プレイエルの客席はただただ圧倒されて、まさに感動と興奮のるつぼと化しました。
そして最後は会場中がスタンディング・オべイションで、その喝采はいつまでも続きました。
≪クリスチャン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル 日本公演≫
2010年6月3日(木) 19時開演 サントリーホール
2010年6月5日(土) 18時開演 サントリーホール
2010年6月10日(木) 19時開演 サントリーホール
⇒ 詳しい情報はこちらから!
クリスチャン・ツィメルマンがヨーロッパで「ショパン・プログラム」のリサイタル・ツアー中です。ショパンの誕生日とされる2/22には、ロンドンでリサイタルを行い大成功!
来日を前に、ショパンに対する深い思いを語ってくれました。
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世界中がショパンの生誕200年を祝うなか、クリスチャン・ツィメルマンはヨーロッパを旅している。細心の調整を施した彼自身のピアノとともに、2010年の年明けから、まずはスペイン、フランス、イタリアの各地でリサイタルを行った。
先の2月22日、ロンドン、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールでのリサイタルの成功も伝わってきたばかり。この日はショパンの出生証明書に記された日付でもあり、ツィメルマンの思いもとくに深いコンサートだったろう。プログラムはもちろん、オール・ショパン。ノクターン嬰ヘ長調Op.15-2、ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調Op.35、スケルツォ第2番変ロ短調Op.31、そしてピアノ・ソナタ第3番ロ短調Op.58、舟歌嬰へ長調Op.60という曲目を眺めだけで、日本での公演が待ち遠しくなる方も多いのではないだろうか。ちなみに、この日はアンコールとして、ワルツ 嬰ハ長調 Op.64-2が演奏されたときく。
次の公演としては、ショパン自身が誕生日と思い、家族や友人たちもお祝いしていた3月1日に、パリのサル・プレイエルでのリサイタルが控えている。ショパンが亡命し、活躍したここパリでのコンサートを、ツィメルマンはあえて選んだのだろう。その後ドイツ、オランダ、スイス、フランス、オーストリアなどを旅した後、ショパンへの思いとともに海をわたり、5月から6月にかけて日本各地でのツアーが予定されている。
「今回はオール・ショパン・プログラムを組みますが、この後しばらくショパンを弾くのをお休みしようと思っています。日本の聴衆の方々に、私の弾く第2番と第3番のソナタをお聴きいただけるのは、数あるうちの最後の一回になるかも知れない。もういちど、日本でこれらの作品を弾くことになるのかどうかは、まだわかりません」。昨年11月の来日の折に、ツィメルマンはたんたんとそう語っていた。ショパンの作品のなかでももっとも素晴らしい、と考える2曲のソナタを併せて演奏する機会を、ピアニストはそれだけ慎重に吟味してきたのだろう。
「私は生まれたその瞬間から、ショパンの音楽とともに歩んできたのです。その後、音楽を本格的に学ぶようになってからは、自分からもショパンとの関わりをもつようになりました。今回のレパートリーで言えば、変ロ短調とロ短調の2つのソナタは、35年にもわたって私の人生を伴奏してきてくれた作品です。私が感情的に激しく揺れ動いた時期に、かならずそこにいて、スポンジのように私の感情を吸いとってくれた曲なのです。その意味で、私の解釈はとても個人的なステイトメントなのだと思います」。
そう語りながら、ポーランド出身のツィメルマンは、模範的なショパン演奏をするピアニストとみなされることに抗っている。おそらく、1975年のショパン国際ピアノ・コンクールに優勝したときから、現地の英雄はずっとそうした評価とたたかってきたに違いない。
「もちろん、個人的な見解ではあっても、やはり音楽的な見地から許された範囲内での、というところは強調しておきます。歴史のある時期に許されていた境界線を超えるつもりはありません。私は、当時音楽というのはどのようなものであったか、ということをなるべく追求していきたいと思っているのです。今日の音楽は非常に商業化されて、ビジネスの一環となっていると言えますが、当時の音楽というのはなにかを表現するための必要不可欠な手段だった。そのような気持ちで私はショパンを演奏したいと思っています」。
クリスチャン・ツィメルマンはそうして密かな覚悟を語っているように思えた。しかし、ユーモアに溢れる彼は、こう言い添えることも忘れない。「生誕200年と言いますが、ショパンは実際、若者の作曲家だったわけですしね。39歳で亡くなったということで間違いがなければ(笑)、現在の私よりもずっと若かったわけですよ」。
文・青澤隆明
≪クリスチャン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル≫
2010年6月3日(木) 19時開演 サントリーホール
2010年6月5日(土) 18時開演 サントリーホール
2010年6月10日(木) 19時開演 サントリーホール
曲目:
【オール・ショパン・プログラム】
ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 作品35
ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 作品58
●全曲目は追って発表致します。
※この他の曲目につきましては、東京3公演は異なるプログラムになる予定です。
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TEL:ジャパン・アーツぴあコールセンター (03)5237-7711
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『音楽が息づいていました。』11月20日、クリスチャン・ツィメルマンがルトスワフスキのピアノ協奏曲をチョン・ミョンフン指揮/東京フィルハーモニー交響楽団と共演。
清らかで、あたたかく、激しく、絶望し、凛と立ち上がって・・・ まるでピアノが生きているかのように、音楽がそこから生まれてくるかのよう。
ピアノはもちろんのこと、ツィメルマンの心の声そのものの音楽は会場のお客様の胸を打ちました。
音楽が息づいていた・・・
きらきらとはかなく奏でられるピアニッシモ、叫び声のようなフォルテ、すべてを把握し的確に、そして楽しそうに指揮をするチョン・ミョンフン。
二人の巨匠は、初めての共演とは思えないほどの共感をもってこの作品に息を吹き込んで、私たちに聴かせてくれました。 徐々に緊張感が高まって、ツィメルマンがほとんど立ち上がりながら最後の音を弾き終わった後、客席からは低い声で「ブラヴォー」。
そして、しばらくしてから熱のこもった、敬意のこもった拍手が続いたのでした。
この演奏会は大事件だよ。
今回の素晴らしいアーティストの組み合わせによる、日本ではかつてたった1回演奏されただけの、非常に珍しい作品の演奏会について、こうおっしゃった方がいらっしゃいます。
このコンサートを聴くことができた喜びを感じ、充実した気持で家路につきました。
今からでも間に合います。11月23日(日)の公演について
⇒詳しい公演情報はこちらから
ルトスワフスキについてツィメルマンが語る講演会の続きをお送りします!
公演会レポートその@はこちらから
疲れた様子も見せず、むしろ頬を紅潮させて熱心にツィメルマンは今回披露されるルトスワフスキのピアノ協奏曲についてピアノを弾きながら、細かく話してくれました。
「1楽章には、まだ60年代のなごりがあります。ショパンを思わせるような古典的な響きとともに、偶然性の音楽が入っています。」とツィメルマン。
この“偶然性の音楽”について私たちは、何となく「アナーキー」「即興的なもの」という受け止め方をしていますが、実際は譜面にしっかりと規則が書かれているそうです。
そして、ツィメルマンは「皆さんと偶然性の音楽を演奏してみましょう」とにっこり。
客席を大きな2つのグループに分けました。その半分はオーケストラに、そして残り半分をソリスト群にみたてました。そのソリスト群をさらに、3つと4つのグループに分け、群の各グループには「言葉=音楽」を伝えます。(その言葉は、「トロ」(2文字)、「マグロ」(3文字)、「カンパチ」(4文字)、「ト(ウ)モロコシ」(5文字)など・・・)オーケストラ群には「車が猛スピードで走っている音」など、物事からイメージされるとどめなく続く音を発声するよう指定しました。
アクセントと音量は、ツィメルマンが指揮をして「複雑性の効果を維持しつつ、実際の演奏は単純にする」という“偶然性の音楽”を会場中の聴衆とともに大合唱&大演奏(!)したのでした。オーケストラが偶然性の音楽を奏でているところに、それを中断するかのようにピアノが入り、またオーケストラ、それを中断するピアノ、またオーケストラ、ピアノというように続き、最後はそれらが累計的に重なりあっていって1楽章のクライマックスを迎えていきます。
続いて、2楽章は・・・これは「非常に恐ろしい楽章です」とツィメルマン。
「スコアの1ページ目だけで、テンポが8種類も出てくるのです。オーケストラは練習を嫌がることが常ですが、44小節目のところに来て、もっと練習しておくんだった、と後悔するのです!」と会場の爆笑を誘います。
ところで、ツィメルマンは、オーケストラとの練習については決して妥協しません。彼が必要とするリハーサル日数がきちんと確保されることが、ピアノ協奏曲を演奏する条件になっているほどなのです。今回の公演も通常では考えられないリハーサルが行われます。そういった意味でも、ツィメルマンがピアノ協奏曲を演奏する公演は非常に貴重なのです。
そして「3楽章」 …「この楽章は、作曲家の愛の告白、作曲家の意思表示、個人的な思いの吐露なのです」と力強く話すツィメルマン。この作品が作られた時期、時代は大きく変わっていました。東西を引き裂いていた鉄のカーテンが崩れ、東側の諸国が自由を求め大きく揺れうごいていた時代を大きく反映し、未来を予測できない時代における、ルトスワフスキの姿勢、人間としての姿勢がこの作品にすべて込められているのです。
そして非常に興味深いことに、ショパンのピアノ協奏曲第1番とルトスワフスキの作品とに共通する部分を、実際にピアノを弾きながら示してくれました。「緊張感あふれる楽想」「レチタティーボ的な作風」。ツィメルマンの演奏で聴くと、説得力があります。
最後に「4楽章」 …この楽章のおもしろいところは、ピアノがテーマを弾くことがない、ところなのだそう。いろいろな楽器が、さまざまな色彩を帯び、テーマとは気づくことのないテーマが次々と重層的に現れてきて、高揚し、緊張感を高め、最後に意思表明がなされます。
話を進めるごとに熱が入り、とても長い講演会になりましたが、ツィメルマンの情熱、そして何よりも「ルトスワフスキのピアノ協奏曲」という作品にとても興味を持ちました。
ルトスワフスキについて「バッハ、ベートーヴェン、ブラームス・・・という大きな流れに連なる人」と話していたツィメルマン。まだまだ日本ではあまり知られていない存在ですが、今回の講演で垣間見ることができたルトスワフスキの作品の素晴らしさを、実際に感じてみたいと思いました。
他にもいろいろな話題が続きそうな講演会でしたが、時間の都合もあり「また次回!」ということで終了いたしました。
⇒公演情報はこちらから
今年、世界初演から20周年を迎えるルトスワフスキのピアノ協奏曲を、世界各地で演奏しているクリスチャン・ツィメルマンが来日。
11月7日、明治学院大学でルトスワフスキについて語る講演会が開催されました。
(主催:明治学院大学/日本アルバン・ベルク協会)
時にはピアノを弾きながら、2時間30分にわたり行われた講演会の様子を2回に分けてご報告します。
モデレーターの岡部真一郎氏(明治学院大学教授)に紹介され、にこやかな表情で会場に入ってきたクリスチャン・ツィメルマン。
多くのお客様が集まってくださったことへの感謝とともに発した言葉は、「皆さん、そもそも、現代音楽とは何でしょうか」という問題提起でした。
「私には“現代音楽”という音楽はありません。音楽は音楽であり、バッハが作った音楽も、今生きている作曲家が作った音楽も、人間の内なるものを表現したもの、内なる声、動きを伝ええたいと思い作られたものなのです。」
「そして、今回演奏するルトスワフスキの作品は、emotion(感情)というもの、聴衆とのemotionのやりとり、接点、伝え合いたいという心を強く感じるものです。ですから、今日このようにルトスワフスキの音楽をもっと知りたい、というお客様と、このように語り合えることを、とても嬉しい」と話してくれました。
「ルトスワフスキ氏自身が、自分を“現代作曲家”という言葉でくくらないで欲しいと言っていました。かつて、私は尊敬するルトスワフスキ氏に“もっと多くのピアノ作品を作曲して欲しい、そうすればあなたの作品だけで構成されたコンサートを行うことができるから・・・”とお願いしたことがあります。しかし、ルトスワフスキ氏は“そんなことはやめて欲しい。私の願いは、例えばバッハや、ブラームス、もしかしたらフランクなどの後に、そうそうルトスワフスキの作品も入れると良いね”というように、コンサートに加えて欲しい・・・と話していました」 今回日本でのコンサートは、後半にチャイコフスキーの「悲愴」(20日)、ベートーヴェンの「運命」(23日)が演奏されます。欧米でもこのように、いわゆる“普通”のクラシック音楽のコンサートで演奏される曲と一緒にルトスワフスキのピアノ協奏曲は、オーケストラの定期演奏会などで演奏されました。
私たちは「ルトスワフスキ」という名前を聞いただけで、難しいのではないか?判らないのではないか?と怖気づいてしまうのですが、ツィメルマンの音楽の本質的な部分を感じ、信じる姿勢に励まされ、この貴重な機会を逃したくないという思いを強くしました。
ところで、ツィメルマンがルトスワフスキ氏に初めて会ったのは1974年のこと、ツィメルマンがショパンコンクールで優勝する前のことだったそうです。その後再会し、ルトスワフスキがピアノ協奏曲の作曲を約束したのですが、そのころの作曲家にとって、ピアノ協奏曲を作曲する、ということは非常に難しい状況だったようです。というのも、60年代の作曲書法はどちらかというと知識が重要視されており、「そもそも、音楽は何のためにあるのか」という基本的なことが、どちらかというとないがしろにされていたとのこと。それはもしかしたら、今、私たちが現代音楽に対して持っている「難しいもの」という偏見にも似た思い込みの原因かもしれません。何か新しいものを作り出したい、新しい形で表現したいという気持ちが、「新しいもの・形」を模索することの方にばかり向いていた時代だったのかもしれません。
ルトスワフスキから「ピアノ協奏曲が出来上がりました・・・」と連絡を受けた時、ツィメルマンはすぐに、ルトスワフスキが滞在していたロンドンに飛んだそうです。「ホテルの部屋で譜面を1枚1枚ベットの上に並べながら、ルトスワフスキはその音楽を口で歌ってくれました・・・」と、その時の様子を思い浮かべながら話してくれました。
その時のことを話すツィメルマンは、感動が心に蘇ってきているよう・・・。
その話を聞いているだけでも、世界初演することへの期待と不安、そして緊張が伝わってきて、それは今回の演奏会への期待へと繋がっていきます。
次回は、ルトスワフスキ:ピアノ協奏曲について、ツィメルマンが詳しく話してくれた様子をご報告します。
⇒講演会レポートAはこちらから
⇒公演情報はこちらから
日本ルトスワフスキ協会副会長の阿部緋沙子さんが紹介する「偉大な作曲家ルトスワフスキ」の第2弾です。1969年11月20日の読売日本交響楽団の第61回定期演奏会のプログラムに執筆された文章を一部ご紹介します。
ポーランド日記
×月×日
〜前略〜「ポーランドには、古くは中世、ルネサンス、バロック、又ショパン、シマノフスキと立派な伝統がありますが、それらは貴方に何か影響を与えたでしょうか?」との私の質問に、「勿論そうです。特にショパンの音楽には影響を与えられ、今でもショパンの魅力の下にいます。でも直接的ではなくそれは多分間接的な影響でしょう。
シマノフスキに関しては、若い時には、直接的でした。私が11才の時にシマノフスキの第3シンフォニーを始めて聞きました。それはその時の私の人生の決定的瞬間でした。そうです、シマノフスキの第3シンフォニーを聞いたこと私は非常な感動を受けたのでした。その日から現代音楽が、私の(想像―イマジネーション)の中に入る様になったのです。その時から現代音楽を、魅力と不思議に満ちたものと思うようになりました。そしてその音楽のメカニズムを理解しようとしました。もちろん私はまだ11才の子供でした。そしてそれを勉強し始めました。
その後、シマノフスキの影響がしばらく続きました。深い影響です。しかしそれは大学時代に終って、その後の私の創造はシマノフスキの音楽に対する一種の反動だったのです。」と答えて下さいました。
〜後略〜
⇒第1弾の記事はこちらから
⇒ツィメルマン、約束のピアノ・コンチェルト
公演の情報はこちらから
ツィメルマン、ルトスワフスキ 「ピアノ協奏曲」について語るゲスト:クリスチャン・ツィメルマン
(ピアニスト/ルトスワフスキ作曲ピアノ協奏曲世界初演者)
モデレーター:岡部真一郎 (音楽学者/明治学院大学教授)
日 時 : 11月7日(金) 18:30〜 (20:30終了予定)
場 所 : 明治学院大学 内 (全席自由) ⇒交通・アクセス
定 員 : 300名
締切り: 10月24日(金) 12:00必着
<お問合せ>
ジャパン・アーツお客様サービス部:
03-3499 - 9670 (月曜〜金曜 10:00〜18:00)
<応募方法>
[お名前] [ご住所] [ (日中連絡のとれる) 電話番号] を明記の上、
Eメール 又は FAX で送り下さい。
Eメール: lecture@japanarts.co.jp
FAX: 03-3498-0008
⇒応募用紙ダウンロード※受付は終了しました。
*応募者多数の場合は抽選させていただきます。
*当選者の方には11月1日までに詳細をご連絡いたします。
*講演会は通訳つきです。
1988年8月、ザルツブルク音楽祭で作曲者本人の指揮、クリスチャン・ツィメルマンのピアノで世界初演されたルトスワフスキ作曲「ピアノ協奏曲」。今年は“世界初演から20年”という節目の年にあたります。
初演時にツィメルマンがルトスワフスキ氏と交わした「この作品を世界各地で演奏します」という<約束>、また作曲家自身の「現代音楽という枠でこの作品をとらえないで欲しい、いわゆる“通常”のコンサートプログラムに入れて欲しい」という<願い> が、いよいよ11月に日本でも実現します。
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主催:明治学院大学、日本アルバン・ベルク協会
協力:ジャパン・アーツ
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11月にクリスチャン・ツィメルマンが演奏する、彼に捧げられたルトスワフスキ作曲のピアノ協奏曲。
20世紀ポーランドが生んだ世界的な偉大な作曲家として活躍したルトスワフスキ氏について、長年に渡り交流のあったピアニストであり、日本ルトスワフスキ協会副会長の阿部緋沙子さんが、かつて執筆された文章をお寄せくださいました。
この一文は1969年9月18日に初めてポーランドへ行き、ルトスワフスキご夫妻に初めてお招ばれした時のことです。
ちょうど六時半!ベルが鳴った。私は深呼吸を一つして、ドアを開けた。そこには満面に笑みをたたえたルトスワフスキ氏が、私を迎えにきて下さっていた。初対面の固苦しさは、サラサラない。早速彼の白灰色のスマートな車でお宅に向かう。アパートの立ち並ぶ中を通り抜け、小さな林、緑の芝生、真赤な花とまるで別荘地のような雰囲気の通りへと入る。新しく瀟洒なお宅の前に車はとまる。気品高く優雅なグヌタ夫人が出迎えてくださった。 先生が私のコートを、ハンガーにかけてくださり、私の荷物を持って一番後からお出になる、習慣とはいえ恐縮してしまった。「これはブルガリア製なんですよ」と赤いブドウ酒をグラスに注いで下さり乾杯の後、私の大好きなポーランドの“赤いバルシチ”(スープ)からお食事が始まった。御夫妻の心からの優しいおもてなしに、私はいつの間にかすっかり暖かい雰囲気に溶けこんでしまっていた。私がはじめてのリサイタルで、彼の「民族のメロディ」を弾いた時のことを興味深くおたずねになる。そしてもう十年経ってしまったことに驚かれた。「日本には優秀な作曲家が多勢いますね」と名前を次ぎ次ぎと、あげて、以前に松平頼則氏にお会いになった時のことを、とてもなつかしそうに語られた。「ポーランドで上映された日本映画は全部見ていますよ。最近は“砂の女”を見ました。すべて大変興味があります」と先生。「私は日本でポーランド映画しか見ないので、お相手ができません」と私。「ルイジ・ノーノがポーランドへ来ると旅行ばかりしているので、大変くわしいけれど、私は国内旅行はほとんどしないので、何も知らない。それと同じだ」とおかしそうに、大きく笑われた。
話が楽しくて、夢中になっている間に、私は洋梨をシロップで煮てクリームとくるみのうすぎりをふりかけたデザートを、いつの間にか三回もおかわりしていた。「私たちはいつもいつも一緒です。外国でもどこでも」と先生。かたわらでニコニコと笑っていらっしゃる奥様。「すみませんが、楽譜を持ってきていただけませんか」と私にくださるために、奥様にていねいにお頼みになる先生。
私はポーランドでは教養の高い夫妻ほど、お互いにていねいな言葉使いをすると聞いたことを思い出した。その楽譜にサインをなさる時「今日は何日?えーと何年だった?」と奥様におたずねになる先生。一人者の私には、いつも羨ましくなるような、優しく暖いお二人なのだ。建築学に造詣の深い奥様が、すべてデザインなさったという新しいお宅は、非常に洗練された美しさと、高い気品を感じさせる。
じっと見つめていると私は「ワルシャワの秋」でポーランド初演され、聴衆を熱狂させた彼の「LIVRE POUR ORCHESTRE オーケストラのための本」が思い出されてきた。鋭く磨き抜かれた美しさに、優雅な気品をたたえ、そして聴く者の心を興奮させる素晴らしい迫力を持つこの音楽は、彼の人間性そのものと私は感じた。
書斎に案内してくださり、まずテープの戸棚を見せてくださる。一番上に私が八年前のリサイタルで、先生の「ブコリキ」を弾いた時に、お送りしたテープがのっていた。私は「恥ずかしい」というつもりが、恐縮のあまり夢中で「驚いた、驚いた。」と連発してしまったので、「何をそんなに驚いているのですか?」と面白そうに笑い出された。そして彼自身が弾いた「ブコリキ」のレコードを私のテープに録音してくださる。私はそれを聴きながら、ふとうつむいてそれを聴く彼の目を見て、アッと心の中で叫んだ。これが真の芸術家の目と感じた。いつもの優しく暖かな柔和な彼の目はどこかへ消えさり、鋭く光る、人をよせつけぬきびしい目、ピシピシとつたわってくる緊張感、私は全身のすくむ思いがした。
「子供がこれを?私にとって最高にむずかしい音楽なのに!」と私は思わず叫んでしまった。
クラクフの国立音楽出版社を訪問して、子供のための教材の中に、ルトスワフスキの「民族のメロディ」を見つけた時のこと。これを教えていただいた時は散散だった。簡単この上もなく見える楽譜が、私の手ではどうしても音楽になってくれず、指はすくみ心身ともにコチコチになってくる。それが彼自身の手にかかると、いきいきと命が与えられて、自由自在に歌いだし踊りだす。私の心は“本当に来てよかった”と感激しているが、指はますますすくんでしまい、ついには「もう弾けません」とお詫びする始末。先生は「この曲はテクニックはむずかしくないけど、音楽はやさしくはない」とお笑いになる。「やさしくないどころか、私にとっては最高にむずかしい音楽です。だから先日のTVで演奏した時も、<民族のメロディ>をとの注文を、むずかしくてまだ弾けませんとお断りしたのです」と私。先生は「わかります、わかります。」と大笑いされた。
1970年3月「音楽芸術」より
阿部緋沙子(ピアニスト、日本ルトスワフスキ協会副会長)
ルトスワフスキ氏から阿部緋沙子さんへ送られたお手紙の一節です。
1971年6月14日 Szanowna i droga Pani (尊敬と愛をこめて)
音楽は、人間の魂の最も繊細な楽器だと思います。この楽器の秘密の力があればこそ、この上なく遠くへだたった大陸に住む人々の間でさえお互いの魂のふれあいが得られるのです。今日の困難であつれきに満ちた世界ではとくに必要な貴重な魂のふれあいなのです。 (後略)
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