2011年12月19日

「フーガの技法を読み解く1」バッハとその時代 その(2) 社会的背景 [コンスタンチン・リフシッツ]

文・写真:加藤浩子(音楽評論家)

 バッハが偉大な存在であることは言うまでもないが、筆者が特別バッハを尊敬してしまう大きな理由は、バッハがごく普通の市民生活をまっとうしたことだ。
 そんな当たり前なこと、と思われるかもしれない。けれど作曲家の生涯を多少調べた方ならお分かりのように、世に言う大作曲家で地に足のついた市民生活を送ったひとはごく少ない。ベートーヴェンしかり、シューマンしかり、ワーグナーしかり。みな、ある意味家庭人としては失格である。
 けれどバッハは違う。2度の結婚で20人の子供をもうけ、大家族の家長としての務めを立派に果たした。一方で仕事人としては膨大な創作量!をこなしたが、それは当時の職業音楽家としては当然でもあった。バッハはいわば、偉大なる常識人だったのだ。
 バッハがこれほどバランスのとれた人生を送れたのは、もちろん本人の力でもあるけれど、社会環境も無関係ではない。周知のように当時の音楽家はお雇いの身であり、注文のままに仕事をこなす職人だった。その頃の「音楽」は、自己表現の「芸術」という位置づけではなく、先祖代々受け継がれる職人仕事であり、磨いて行くべき技芸でもあった。その枠のなかに組み込まれ、職を得ている限り、音楽家は安定した仕事だった。19世紀の大作曲家たちが、宮仕えを脱した代わりに不安定な生活環境に甘んじなければならなかったのとは対照的だ。
 バッハを雇い、給与を払ったのは、「宮廷」や「都市」である。中央集権国家のフランスと違い、数百の国に分裂していたドイツでは、
中小の「宮廷」とならんで、「都市」も力を持っていた。ドイツが今でも首都のベルリンに一極集中せずに、ハンブルクやミュンヘンなど魅力的な大都市をいくつも抱えている理由は、そのような歴史にある。バッハが骨を埋めたライプツィヒや、テレマンが活躍したハンブルクといった都市は、商業を通じて繁栄し、ドイツ内の大国に匹敵する富を蓄えていた。小さな独立国のようなこれらの都市には、大宮廷もおいそれとは手が出せなかった。

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ライプツィヒのゲヴァントハウス
バッハはここを本拠にしているゲヴァントハウス管弦楽団の前身である、コーヒーハウスのコンサートを指揮していた


 「都市」は、音楽家にもさまざまな活躍の場を提供した。ハンブルクやライプツィヒのような大都会では、ドイツの他の都市に先駆けて公開コンサートが始まったし、また見本市の町で、出版業もさかんだったライプツィヒでは、自作を出版することもできた。バッハはライプツィヒで公開コンサートを指揮し、《パルティータ》や《イタリア協奏曲》などを含む《クラヴィーア練習曲集》を出版するなど、それまで勤めていた中小の都市や宮廷では考えられなかった活動をしている。
 《フーガの技法》は、小さな町の教会のオルガニストから大都市ライプツィヒの音楽監督へと、音楽職人として順調に出世したバッハが、どこからの注文でもなく自らの意志で、自分の習得した技法を集大成しようと試みた作品だ。そこには、音楽職人から一歩踏み出した、音楽家バッハが透けて見える。けれどその方向転換も、それまでの音楽家職人としての積み上げがあって、はじめて可能になったことだったのではないだろうか。

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ライプツィヒの聖トーマス教会にあるバッハのお墓

≪公演情報≫2012年3月15日(木) 19:00 紀尾井ホール
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詳しい公演情報はこちらから



posted by Japan Arts at 18:58| コンスタンチン・リフシッツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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